フクハラ(横浜市瀬谷区、045-363-7373)はこのほど、圧縮空気用オイルミスト除去装置「オイル・バスター」で、第三者認証機関のテュフラインランドジャパン(同港北区)から最高の清浄等級「ISO8573‐1クラス0」の…
日本金型工業会元会長 上田勝弘氏が死去
豪快にして緻密、改革進める実行の人
日本金型工業会の元会長の上田勝弘氏(大垣精工創業者、取締役会長)が3月20日、心筋梗塞のため死去した。87歳。3月23日に通夜、24日に告別式を執り行った。
上田氏は1961年に立命館大学法学部を卒業後、地元岐阜県大垣市の金属加工メーカーに就職。68年に大垣精工を創業した。84年にはセイコーハイテックを設立し、プレス量産部品に参入。その後、精密プレス金型、部品メーカーとして同社を拡大させた。

日本金型工業会では2002年に会長に就任し、組織改革をけん引。岐阜大学の金型学科設立に尽力するなど、教育にも注力した。13年にはこうした業績が認められ、旭日中綬章を受章した。
豪快にして緻密—。この相反する要素を持つ人だったと思う。会合での「上田節」のあいさつはアドリブでいつも爆笑。それだけを聞きに来る人も多かった。日本金型工業会の改革、自ら創業した大垣精工の運営を見ても、豪快な印象は強い。
しかし、非常に緻密な側面も強い。取材時に修行時代のノートを見せて頂いたことがある。びっしりときれいな字と手書きの正確なイラストで記されたノートは今でも通用する「虎の巻」ではないかと思う。乱読家で、勉強家でもあった。
経営戦略も緻密に描いていた。創業時から「金型をコア技術とし、プレス量産品で稼ぐ」という明確なビジョンを持っていた。「『量産して欲しい』と言う声は少なくなかった」が、「時期尚早」と見極め、拙速に量産に参入しなかった。84年の量産参入まで、金型技術を磨き続けることに注力し、強みに変えた。
こうした技術や緻密な戦略をベースに企業は順調に成長。精密プレス金型、部品メーカーの「雄」として、現在は250人近い規模に育て上げた。
技術や経営力の高さは社内だけでなく、外部にも影響を与えた。日本金型工業会で技術委員長を務める久野功雄氏(久野金属工業)は大垣精工で修業した経験を振り返り「金型づくりの本質と、企業の仕組みづくりの重要性を学んだ」という。
2002年には日本金型工業会会長に就任し、組織改革に着手。それまで支部ごとで予算や企画を実行していたが、予算を一本化し、組織改革と財務を健全化させた。「上田元会長でなければできなかった」(同工業会の中里栄専務理事)。
会長としての存在感や経済産業省など外部からの評価も高く、小泉内閣時代は国会に招かれたこともある。教育にも注力し、岐阜大学の金型学科設立にも奔走した。今年一月の取適法への改正では「下請け」と言う表現がなくなったが、その主張は20年以上前に上田元会長がしていたもの。今の金型業界を見通していた先見の明に驚く。
企業経営でも、日本金型工業会の会長時代でも、豪快にして緻密な改革に人がついてきたのは「無私の人」だったからだろう。金型業界は難しい時代を迎えている。今の時代なら、どんな「絵」を描いただろう。今こそ経営者としての上田勝弘氏を見てみたい。合掌。
金型しんぶん2026年4月10日号
関連記事
プレス用金型は22.3%減、プラ用金型は2.5%減 2023年3月の金型生産は、前年同月比9.9%減の338億6,400万円、前月比では29.2%の大幅増となった。期末の駆け込み需要の影響とみられる。数量は前年同月比13…
2020年の秋の叙勲で、日本金型工業会の元会長の牧野俊清氏(長津製作所会長)が旭日小綬章を受賞した。 1948年生まれ、74年に東京工業大学を卒業。エンジニアリング会社勤務を経て、83年長津製作所入社、89年に社長、…
自社の強みを発信 広く知ってもらうことが、会社の成長につながる 「自動車や電機メーカーなどの企業(法人)がお客さんなのだから、自分たちの仕事を一般の人に知ってもらう必要はない」。私もこの会社に入社した当時はそう思っていま…
日本でのプレス加工の歴史が始まって約150年。日本の製造業の発展とともに、プレス加工は進化を続けてきた。近年では最大の需要先である自動車産業でEVシフトが活発化していることから、新しい需要獲得に向けた開発や事業に取り組む…


